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何処かで風鈴の音が聴こえた気がした。
蝉の声に消されそうなその響きを聞き取ろうと、
マヤは夕暮れの涼やかな風に髪を靡かせて耳をかたむける。
今年も何の変化も無く、また晩夏が過ぎ去ろうとしている。
このまま年月に埋もれ往こうと、きっと忘れない。
あの淡い記憶の夏を。
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威勢の良い、宅配業者の男性の声がインターフォンから響く。
判を押して労い、荷物を受け取るとマヤは慣れた手つきで手早く箱を開けて、匂い立つ薔薇の香りを胸に吸い込む。
紅天女の地方公演後に、休日を見計らうように贈られてくる紫の薔薇。
紅天女を掴み取ってから一年が経とうとしていた。マヤに紫のバラを贈り続けている男は、その姿を彼女の前に見せる事は無かった。
長い間、紫のバラの人との橋渡し役をしていた男性が訪れる事も無い。
彼らとの関りは一切絶たれたのに、こうして紫のバラだけが、花屋から宅配便で、何の素っ気もなくマヤの元に届く。
宛名にすら、彼の名前は無い。彼が贈り続ける理由は、わかるようでわからない。
はっきりさせる必要も無いだろう。
一枚のカードすら付かない、ただ、バラが届くというだけなのだから。
そっと梱包を解いて、マヤはいつものように花瓶に生けるとテーブルにそっと置いてみる。
そうしてぼんやりとテーブルに肘をついて座っていると、薔薇の向うに彼の微笑が見えるような気がした。
その日の午後、劇団員の打ち上げに顔を見せたマヤの心をすぐさま察して、桜小路は苦く微笑んだ。
きっとまた紫のバラを受け取ったのに違いない。彼女を取り巻く空気がいつもと違う。
マヤの心が普段より浮ついている事に、自分以外に気付く人はおそらくいないだろう。
それくらいに些細な変化でしかないのに、彼女の相談に乗り、すべての状況を知り尽くしている自分にとっては実に分かりやすい。敏感に分かってしまう自分が正直疎ましい位だった。
彼女が紫のバラの人を愛している事を、桜小路はこれまで嫌というほどに思い知らされていた。
目の前の自分を見て欲しいと彼女に乞い、力尽くで自らの物にしようとした事さえある。
だがその都度に、求めたのと同じだけの拒否が彼女から返されるのだ。どれだけ願って、どれほど足掻いても彼女の心は自分に向きはしない。
求めても手に入らない。それでも諦め切れぬ悪循環な心だけが、同じだった。
マヤは真澄の心を得られず、桜小路はマヤを得ることができなかった。
報われぬ感情を共有する同士として、二人は舞台の相手役に成り立っている。
紫のバラが贈られてくる限り、マヤの想いは果てしなく続くだろう。その状態から抜け出す自信など彼女には無いのだ。だからこそ、紅天女を演じる事が出来るのかもしれない。愛しい人を乞い続け、束の間に思いを通じ合わせて悲恋を描き続ける。そうして、同じ日常を繰り返していくしか他に方法はなかったのだ。
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結婚もせずに仕事の猛者として生きるのは楽しいか。
そう皮肉めいた口調で真澄に投げ掛ける声には、裏切られた思いに対する憎しみがこめられている。
婚約を無碍に破棄した真澄に対して、その報復として鷹宮家は大都との繋がりを一切断ち切った。
それがどれだけの損失になるかを心得ている筈なのに、何の前触れも無く一存で鷹宮を切り捨てた真澄に英介の怒りは治まる事は無かった。
その手腕を持ってすれば容易に手に出来た筈の紅天女の上演権も、何の思惑があってか、真澄は愕然とするほどにあっさりとその好機を見過ごしたのだった。
大都にとって大きな負となる決断を一時期に二つも下した息子に英介はひどく憤慨した。
有能且つ忠実な真澄の部下達を遠ざけ、自分の管理下で飼い慣らしていくよりない。だが、この男が大都の奴隷として生き続けるつもりは無いだろう。油断は出来ない。英介は、注意深く鋭い視線で真澄を監視し、睨み続ける。
どれだけ彼が裏切ろうとも、血の繋がりの無いこの息子を手放す気は無い。
自分でも馬鹿げていると思う。親子の情などではない。ただの固執だ。真澄は言わば自分の作品なのだ。
それでも従順にならないというのならば、そんな失敗作は作り変えてしまえばいい。
自分のした報いを受けるがいい。
その言葉を聴いた途端、真澄は憎しみに顔を上げ義父を睨みつけた。
いつか必ず、同じ事を自分が告げてみせる。
同時に、真澄は己の不甲斐無さを呪う。もっと自分に力が有れば。まだ、足りない。あの男に対峙するには、及びも付かない。自分の足場はいまだ大都という敵の上にある。自らの地面を踏みしめてはいないのだ。
二度の裏切りにその足場すらも今は危うい。今は慎重に足元を創り上げていかなければならないのだ。
英介は真澄が鷹宮を切り捨てた後すぐに動いた。鷹宮には及び付かないとはいえ、次なる勢力の財閥との
締結を取り付けたのだった。その英介が紅天女の上演権を諦めるはずもなく依然虎視眈々とその好機を狙っているのを知っている。
だが、すべて妨害して見せる。
大都がその機能を失い、打ちひしがれた英介が紅天女への想いを枯渇させるまで。
その為には自分の根底にある紅天女の存在をこの狡猾な男に見せてはならないのだ。
自分の行動の総てが彼女へと繋がっていると知れば、彼は北島マヤという女優を潰しかねないだろう。
だからこそ、マヤに会う事は出来ない。
幾度か尋ねてきた彼女を冷たく追い返したのも、彼女を避けることでしか自分の感情を制御できない為だ。
彼女への激情を苦しい程に自覚している。会える筈も無い。会えば、総てが水の泡になる。
贈り続けている紫の薔薇が、彼女と自分との繋がりを保っていられるとは思わない。
だが、度々安っぽいワイドショーを騒がせているマヤと桜小路の二人の交際報道は、不思議と真澄の心を乱す物とはならなかった。画面に映る彼女の瞳は、桜小路を映してはいないのだ。
その瞳に映されているのは、おそらくは…
贈られる方も迷惑がっているかもしれんがな…
ふと、腕時計に目をやる。
明日からの行方を思い、頭で考えるよりも先に、体が動き出す。
ほんの少し。
ただ少しの間でいい。彼女の姿を、感じたい。
彼女のその眼に映る物が、移り変わっていかないように。
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