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表に出るなり、暑さを引き立てる蝉の声と熱気がマヤを包む。
真夏への嫌悪を感じるでもなく、表情も無く機械的に足を進ませる。
そうして、いつもと同じ日が始まる筈だった。
マンションのエントランスを抜けた所で、静かに呼び止められなければ。
マヤは顔を上げて振り向く。
表情は見えない。逆光に目を細め、光を纏った体のラインを見い出す。
まさか、こんなところに来る筈が無い。
彼が、来るとしたら、その時はきっと薔薇の終わる時か、それとも…
目を瞠って、その人が自分に歩み寄ってくるのを見つめる。
目の前に立ち止まっても、言葉も出せずにただ彼を見上げる事しか出来なかった。
どれくらい長い間彼の顔を見ていなかっただろう。
凛とした双眸と、なおシャープになった頬のライン。
一体、何が変わったのだろうか。
会わずにいた間に、もう幾度も思い浮かべた彼の顔とはひどく違って見えた。
紫のバラの関係を、終わらせに来たんですね?
浮されたように告げたマヤの額に、真澄の指先が触れて、ゆっくりと前髪をかきあげる。
終わりなど無い。バラは、贈り続ける…
額に彼の唇が触れていたのは、ほんの僅かな間だった。
騒がしい蝉の声も、ひととき歪んだだけで、瞬時にして耳に戻ってくる。
マヤは身を翻した。すでに彼の姿は無い。
目を見開き、真夏に起きた白昼夢の様な瞬間を捉えようとして、マヤは足音を追う。
彼への階段を、数段降りかけて、立ち尽くす。
追いかけてどうするというのだろう。
今彼を追っても、きっと蜘蛛の糸のようなか細い繋がり…紫の薔薇を失うだけだ。
彼がここへ来たのは、絡め取っておいた獲物がまだそこに存在しているかどうかを確認するだけ。
紫の薔薇から自分を解き放つ為ではない。まだ、その刻ではない…
そうしてどのくらい、そこに立ちつくしていたのだろう。喉の奥が焼け付くように熱い。
ふと頬に手をやったマヤは、涙が頬を滑り落ちていくのを感じて、ぐいと眦を拭った。
終わりなんて無い。そして、始りも。
こんなの、私が求めているものとは違う。
ただ、あなたがいるだけで私は…他には何も望まない。
なんにも、いらないのに。
呟きは彼に届くことなく、地熱を孕んだ熱風に紛れて散っていった。
急激に、自分を取り巻く夏の熱気が疎ましく感じて、マヤは固く瞼を閉じた。
彼を渇望し暴走しようとする感情を遮るものは一体何なのだろうか。
なぜ、昔のように直情的に彼にくって掛かることが出来なくなってしまったのだろう。
追いかけていって、自分の胸の内を彼にすべてさらけ出せば綺麗に終わりに出来る筈なのに、彼とのつながりが無くなるのが怖くてとても出来ない。
それでも、想いの限り叫びたくて堪らなかった。
だが、数日後に見かけた週刊誌で彼の渡米を知り、その叫びはなお遠くなる。
***********
ふいに蝉の騒がしさが遠ざかり、風鈴の高い音色が空に透き通っていく。
その染み入るような響きに、マヤの気持ちもゆっくりと夏の風に溶ける。
彼の柔らかい口付け。額に残る感触。
それだけが、今の自分にとっての糧だった。
前を向いて 生きていかなければならない。
いつまでも紫の影を追うことしか出来ないとしても。
紫のバラが、マヤのもとへ届く。
彼が贈り続けるのは、何時かの再会への希望だと信じ続けて。
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