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数日続いた冬の雨は止み、澄み切った青空がひろがっている。
目的地から少し離れたところへ車を止めて、鷹久はマヤを送り出す。
「じゃあ、ここからは歩いていけるね?」
「はい、送って下さってありがとうございます」
「帰りは迎えに来れないと思うよ。ごめんね」
「そんな!ここに送ってくれただけで充分です。じゃあ…行ってきます」
「うん、頑張ってきてね!」
「はい…」
頑張ってって…何を頑張るって言うんだろ?
争えっていう意味だったら、負けは確定しているのに。
負け犬として呼び出されて行くのが怖くて、なかなか家を出ることが出来なかったマヤを、鷹久は無理矢理車に押し込めてここまで連れて来た。
そうして仕方なしにとぼとぼと歩いていくマヤの背中を、鷹久は満足そうに見つめていた。
マヤは緊張した面持ちで、長閑な風景にある喫茶店に向かって足を進める。
木漏れ日の揺れるテラスに、マヤを呼び出したその人がいる。
穏やかな日差しのなかで、美しく優美なその人が自分を待っているのがなんだか信じられない気がした。
「あの、北島マヤです。遅れて、すみません…」
「いいえ、私のほうこそ、突然呼び立ててしまってごめんなさい?初めてですわね、こうして二人でお会いするのは」
「……私にどんな御用なんでしょうか」
「まあ。そんな怯えた顔をなさらないで?すぐにお話は終わります。さあ、お座りになって」
「は、はい…」
「本題からはいりましょう?まずは、これをご覧になってくださるかしら?」
「はい…え…これって…」
これって…
こ、婚姻届…?!
ズクズクと、癒えたと思っていた傷が疼きだす。
夫となる欄には、速水真澄の署名。
すでに印鑑も押してある…
「あ…こ、この度は、ほんとに…お、おめでとうございます…!」
「まっ、何のことですの?」
血の気の引いたマヤの顔を、紫織は微笑んで見つめる。
「それは、わたくしが言うことです」
パチンとバッグの金具を開けて、万年筆を取り出しマヤに差し出す。
「さ、お書きになって」
「………………はっ?」
な、何を書くって…?
あっ…ほ、保証人とか?え、そんなの必要だったっけ?
そもそもなんであたしが?
なんだかわかんないけど、もう私に失うものなんて、なあんにもないんだもの。
どうなったっていいんだもの。書けっていうんなら何だって書いてやるんだから!
「ほっ保証人の欄はどこですかっ?」
「まあ、ほほほっ…北島さんはご冗談がお上手ですのね」
「冗談?あの、私、わけがわからないんですが」
「あなたがお書きになるのは、ここ」
美しく整えられた爪先が示したのは。
「…えっ?」
ここには紫織さんの名前がこれから…
なおも悠然と微笑む彼女の顔を見て、マヤは奈落の底に突き落とされるような衝撃を感じた。
ああ…わかった。
知っているんだ。紫織さんは私の気持ちを。
だからこんな嫌がらせをしてくるんだ。
私は紫織さんがいるのに速水さんに気持ちを打ち明けたんだもの。
それは婚約者からすれば当然に腹の立つことだろう…
マヤは後ろめたさにうつむいて、か細い声で紫織に謝罪をもらす。
「ごめんなさい…もう、速水さんにあんな事言いませんから…」
「あんな事って?どんな事ですの?」
「………」
マヤはぎゅっと、膝の上の手のひらを握り締める。
紫織に責められる覚悟を決めなければならない。
ここに、来る時点でそれは決めていたことだった。
にも係わらず、紫織を前にすると、胸が締め付けられるように苦しくて、逃げ出してしまいたくなる。
「おっしゃって下るかしら…あなたはまだ真澄様のことを?」
「……いいえ、そんなわけ…ないです…私は、手ひどく振られたんですから…もうあんな最低の冷血ゲジゲジなんて!」
「まったくですわ…血も涙もないとはあんな方を言うのでしょうね」
「そうよ!あんなやつ!体も氷で出来てるに違いないんだから…っあっ?わっ、すみません、あたしったらなんて失礼な事を…!冷血漢の婚約者相手にゲジゲジの悪口言うなんて…わああ、あたし何言ってんだろっ?」
「ふふふ、いいえ。本当のことですもの」
取り乱してわたわたするマヤに紫織は微笑む。
花香を漂わせるように優しげな笑みに、マヤはドキリとする。
ああ…やっぱり、なんてキレイな人なんだろ。
あたし、紫織さんに何ひとつたちうちなんて出来ないよね。
それなのに、速水さんに告白なんて…ほんっとに馬鹿なことした…
そう思ったら枯れきったと思っていた涙がまたにじんできた。
惨めな気持ちで俯くと、視界に入ってくる婚姻届がぐにゃりとぼやける。
「…当然ですよね、あなたのような素敵な婚約者がいるんだもの。あ、あたしなんかがさつで何のとりえもなくて…」
「そうとも、チビの豆だぬきで器量は悪いし気は短いし感情に直ぐ走って思いもかけないことをやってのけるし碌なことはしないな」
「ええ…そうです、そんなあたしなんか相手にするわけ…」
「まあ、真澄様。いらっしゃるのが遅いですわ。わたくし心待ちにしておりましたのよ」
「!!?」
マヤは、ぽかんと口を開けた。
な、なんで?!なんで速水さんが、ここに?!
「すみません、あなたとのお約束に遅れたことなどいままで無かったのに…」
「…!!」
…そう、か…何度もこうやって待ち合わせして二人で出かけているんだ…
並んでいると、やっぱりお似合いだな…私みたいな子供の出る幕なんてないや…
「そ、そういうわけですから、失礼します…お、お邪魔さまでございました…」
みじめすぎる…もう一秒でもここに、この二人の前にいたくない…
「まだ駄目ですわ!まだ、一番肝心な事をお聞きしておりませんもの…!」
「え…?」
早く、逃げたい。
一緒にいることがどれだけ惨めで辛いか、きっと、この二人には知る由もないだろう。
「北島マヤさん。あなたは真澄様をどう思ってらっしゃるのかしら?ちゃんとおっしゃって下さるまで、帰す気はありません」
笑みを浮かべる紫織と、マヤが問いかけに答えるのを硬い表情で見つめる真澄。
マヤは絶望して、その残酷な二人の顔を悲痛な眼差しで見つめる。
やっぱり、こんなところに、くるべきじゃなかった。
呼び出されたって、断固として応じなければよかった。
この二人は、私のこの気持ちを玩ぶつもりなんだ…!
悲しみと滾る様な怒りがマヤの中に湧き上がった。
「そんなに…私を辱めたいんですか…!?ええ…ええ!そうです!忘れたくて忘れたくてたまらないのに、思い出さない日は無いくらい、私は…私は速水さんの事がまだ好きなんです!大好きなんです!だけど…!」
マヤはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
まだ、まだ泣いちゃだめだ…
「もう過去にするつもりです。紫織さん…あなたと速水さんの間を裂こうなんてこれっぽっちも思いません。そっとしておいて欲しかったのに!なのにどうして私をここに呼び出したりしたんですか?!」
マヤは耐え切れずテーブルの上に突っ伏して、わっと泣き始めた。
紫織は、ついと立ち上がり、そんなマヤの姿をそっと静かな目で見つめた。
「これくらいの意地悪は、させていただいてもいいと思いますのよ?真澄様?」
「紫織さん……」
「真澄様。紫織は、あなたとは結婚できません。正式に、婚約破棄をいたします」
「僕は…あなたが言う様な」「いいのです…!言い訳なんて聞きたくはありません。言い訳をしたいのなら、そこにいる方になさってはいがですの?」
「…」
「少なかれ、鷹宮家はあなたを婚約者とは認めなかったと思うのです。なぜなら…あなたは、初めから最後まで鷹宮家もその孫娘もひとかけらも大切には思っていらっしゃらなかったから。あなたは、平気で人を裏切れる人なんですものね」
嘘です…あなたはとても優しかった。
私が心を痛めぬよう、いつも気遣って下さった。
最初から裏切るつもりなんて無かったと、わたくしは、よく知っているのです。
生涯、添い遂げる相手として、わたくしを、大切にして下さった…だけど…
「嘘は、ばれてしまうものなのですよ、真澄様」
困ったような顔をして、紫織は微笑む。
聞きたくない言葉を促して、真澄がそれに勘付いてくれるのを祈っていた。
「…そのとおりですね、僕は、あなたをずっと欺いていた。お会いしているときも、仕事の事しか頭に無かった。あなたは、大事な取引先の御令嬢ですからね、失礼があってはいけないと、それだけを気にかけていた」
本当の、ことを、あなたの口から聞けば、わたくしは…
「僕は、あなたを、愛してはいなかった」
あなたを忘れることができるのですわ…
だから…そんなに申し訳なさそうな顔をしないで下さい、真澄様。
「…ええ、存じています。だけど、わたくしは、あなたがとても、好きでした。でも、大丈夫…きっと忘れることができると思いますわ…さようなら、真澄様」
約束を、したのです。
どうやら、その約束が、いつか果たされる日が来るようです…
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