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千紫3






夜半過ぎ、水音に気が付いて、麗は目が覚めた。
洗面所からだろうか。先程からずっと、流しっぱなしで止まる気配は無い。

マヤが蛇口、閉め忘れたのかな…

目をこすりながら、そっと立ち上がって薄暗がりの洗面所へ向かう。
電気もついていない中で、何かがごそりと動いた。

「…マヤ?何してるんだい?」

水音に紛れて、咽せるような声が続く。
目を凝らして人影と水音の元を見定めようとするがまったく判らない。
慣れた手で洗面所の電気を点けると、蛍光灯の白い光に眩むように目を細めながら、洗面台に突っ伏していたマヤが麗を振り向いた。
「れ…い…ごめん…起こしちゃった?」

「どうしたの?具合悪いのかい?」

「だ、いじょうぶ。ちょっと、吐き気がするだけだから…」

「そりゃそうだろ、桜小路君に聞いたぞ!今日はかなり食べ捲ってたらしいじゃないか。
 食あたり起こすのあたりまえだよ!待ってな、今、胃薬出してきてやるから」

「…ん、ありがとう、麗」


「ほら、薬とお水」
麗の持ってきた胃薬を手にしながらも、マヤはそれを飲もうとはしない。

「ね、麗?」
手元の薬に目を落としたまま、黙り込む。

「何?あ、まだ吐きそうなの?なら、少し落ち着いてから飲んだほうが」

「私…」
「?」

「…ううん、やっぱり言えないや、なんでもない…」

「マヤ?なんなの?言いかけたこと止めるのはよしとくれ、このあと気になって眠れないじゃないか」

「う、うん…お、驚かないで聞いて欲しいんだけどね、私、実は…」

言いかけてマヤは、ぐっと吐き気をもよおし、再び洗面台へ顔を向ける。
苦しげなマヤの背をさすってやりながら、麗は、ついこの間の舞台でこんなシーンがあったな、とふいに思いつき、まずそんな事は無いだろうと思いながらもマヤに訊ねた。

「それ本当に、食べすぎのせいなのかい?まさか…子供が…とか言ったりしないよね?」

こくんとマヤのあたまが縦に動いたのを、麗は気のせいだと思って見過ごす所だった。

「………え…」

…今、頷いた…よな?

「ほ、本当に?」

ほんの冗談のつもりでいた麗は、マヤも自分の軽口にのっただけだとその時までは思っていた。
けれども、むせ返った息を整えながら出したマヤのか細い声は、麗の言葉を否定しなかった。

「ん…ごめん、麗…」

「え…ごめんって…何?な…なんで?嘘じゃないの?まさか、そんな…」

「…うん…嘘じゃ、ないんだ…」


「………」
その言葉を信じていいものかと困惑し、しばし唖然としていた麗だった。
だけど、目の前でなおも吐き気に苦しむマヤが現実のものだとしたら…

「…そんな…いったい誰の子供だっていうのさ?!どうするんだい?!明日は絶対アンタが選ばれるって試演を見た誰もが言ってるっていうのに。そんな状態で紅天女の公演なんてできっこないじゃないか!」

「…できるよ…」

「無理だよ!あんた一人の体じゃないんだよ?!無茶をすればマヤどころか子供にまで影響が出るかもしれないじゃないか!誰なんだい?!こんな大事なときに、そんな無責任な事をした男は!あ、あたしが叩きのめしてやるっ…!!」

怒り心頭といった感の麗に、マヤはくすくすと笑みをこぼした。

「…マヤ?!笑い事じゃないだろっ?!」

「だって、麗、まるで私の母さんみたいなんだもん。ありがと、でも大丈夫よ。
 一人じゃないからこそ、舞台に立てるような気がするの。そんなに心配しないで?」

マヤが最近浮かべる大人びた表情の理由が、一瞬にして分かってしまって、麗はぐらりと体が傾いでいくのを感じた。

マヤのお腹に子供なんて…なんて悪い夢なんだ…
いいや…お腹に子供が居る事じゃなくて、問題は今このタイミングでそんな事が起きてしまったって事で…


「…あんた…」

「ん?」

「ちゃんと、その子の父親には言ったのかい?認知してはもらえたの?」

「言わないわ。あの人に伝えることは一生無いと思う」

「そんな…!」

「いいの。絶対に手の届かない人が、私に授けてくれた大事な大事な命なの。
 あの人の替わりでもでも無ければ、あの人を引き止める為の命でもないの。
 だから、絶対に、言わないんだから…」

決意を語るマヤに、麗は戸惑う。

「わからないよ…マヤがそうまでする価値が、その相手にあるとは思えない」

「うん…だからね、麗にも、相手が誰かは言わない。だって、言ったら今すぐにでもその人に文句言いにいきそうだもん」

「そんな事…」

しやしないよ、と言いたい所だけれど…気持ち的にはそのとおりなので語尾を暈さずにいられない。麗は自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き毟るとすっきりしない面持ちでマヤに言った。

「決して無理をしないと約束しておくれ、マヤ。まったく…あんたがいままでしてきた無茶にゃ慣れっこのつもりだったけどさ…やっぱりいつまで経ってもあたしはあんたに驚かされっぱなしだ…とにかく…マヤがその子を望むんならあたしはこう言うしかないんだろうね」

麗は落ち着け、と自分に言い聞かせて深く息を吸い込んだ。
何より優先して言ってやらなければいけない言葉。

「マヤがそれほどまでに好きになった人の子供だもの、無事に生まれるよう応援してるからね」

「うん…ありがとう…」

嬉しそうに微笑むマヤに、麗はもう何も言えなかった。












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