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今朝の新聞には「紅天女決定!」という見出しで、姫川亜弓か、北島マヤの名が連なる筈だった。
なのになぜ、「紅天女妊娠!?」という大見出し文字の脇に「お相手は大都社長」「電撃入籍も?」「北島マヤ決定同時に降板か?」というようなふざけたフレーズが乱れ打っているのだろう…
英介はひととおりに目を通すと、苦く笑って書斎を出た。
まったく、馬鹿な男だ。もう少しうまいやり方は幾らでもあろうに…
北島の事になると奸知に長けるあの男も形無しか。油断出来たものではない。
その脆弱さに気が付いていながら、それを真澄に諌めなかった結果がこれだ。
英介は屋敷の庭園へと向かうために、草履を履き、朝靄がかってぼやけた砂利の上をざくざくと進む。
ややして庭木の影から見慣れた池の縁が見えてくると、大きく平たい岩に真澄の姿が佇んでいることに気付いた。
「珍しいな、お前がここに来るなんぞ」
英介がその手に鯉餌を持っているのに目をやって、真澄はふっと笑った。
「…今日は、僕がもうやりましたよ、お義父さん。お楽しみを奪ってしまい申し訳ありません」
「…ふ、そうか…」
英介と真澄は互いに黙り込み、池の水面に目をやる。
餌を食べ尽した鯉が重い水音をたてて翻り、深みへと戻っていくのが見えた。
紅色のその体が揺らめきながら澱んだ淵に見えなくなっても、そのまま視線を動かす事無く、英介は静かに告げた。
「鷹宮からは昨夜直ぐに連絡があった。お前と北島マヤの騒動を理由に、
大都との一切の縁切りを迫られている。紫織さんの耳にも届いたのだろうな。
病床に伏して今は誰とも会いたくないと言っているようだが…」
「はい。僕の所にもそう伝わっています。恐らく修復は不可能でしょう」
激しい叱責を受けるのかと思っていたが、英介の反応は実にあっさりしたものだった。
「まあ、それはいい、予測の範囲内だ。おまえがいつ断りの言葉を切り出してくるのか、
気にはなっていたが…まさかこんな考えなしな事をするとはな」
「知っていたのですか。僕と北島のことを」
「婚約披露の席に北島マヤがやって来た時に、薄々勘付いてはいた。
お前たちは意地の張り合いをしていたが…あのまま疎遠になろうと、
親密になろうと、わしはどちらでも構わなかった。
鷹宮との繋がりが途絶えるのは本意では無いがそんな事は主ではないからな。
わしは、紅天女さえ手に…この手に掴むことができるならば、それで良かった」
英介は両腕を組み、指先をトントンと苛立たしげに打ちながら、真澄を見た。
「…北島マヤは、紅天女の役を降りるのか?」
「当人は降りる気は無いようですが。今期の公演はまず無理でしょう」
「紅天女を貶めるようなまねをしおって。どう責任を取るつもりだ?真澄」
「あなたこそらしからぬ事を言いますね。まるでマヤの紅天女を待ち望んでいたかのようですよ。
ですが、どうぞご安心ください、紅天女の公演は二年後に延期します」
悠然とそう告げる真澄に、英介はさも可笑しげにくくく、と笑い出した。
「なにを言っているやら…お前がそんな事を決める権限は無いだろう」
「お義父さん、僕は北島マヤと年内にでも入籍を済ませようと思っています。
紅天女の全権を持つ彼女の夫として、充分対処できる立場を確保するつもりです。
たとえ観客やあなたを待たせることになろうとも、マヤの身を一番に優先したいのです。
彼女の体調が戻るまでは、紅天女は眠らせたままになることでしょう」
「ふん、二年も待てるか。第一ワシはあんな紅天女は認めん。まったく…具にもつかん話だわい」
そう言って踵を反すと、英介は真澄との会話を切り上げた。
自らの力を持ってすれば姫川亜弓に紅天女の地位を渡す事もできる。
上演権も容易に大都のものにできるだろう。こんな最大の好機は無い。
だが、それをしないのは…真澄の揶揄したとおり、英介もまた、北島マヤの
紅天女に魅入られ虜にさせられていた所為だった。
…ふん、二年後も、試演と同じ紅天女が見られるとは期待しておらん。
あの時の北島だからこそ演じきれたようなものだろうに…
北島マヤの姿を思い起こす。鮮烈な紅天女の姿。
そして、会場で倒れた時の、マヤの姿。英介は、マヤに千草の面影を重ねる。
自分のものにならなかった紅天女が、息子の腕の中にその身を委ねるのを見た。
その刹那に、たまらなく甘美な感情が英介の胸を占めたのだった。
この手に…自らの分身ともいえる息子の手に、紅天女は捕えられたのだ。
これを歓喜せずして何とするものか…
……まあ、待ってやろう…せいぜいそれまで阿古夜に逃げられないよう、掌中の珠に細心を配ることだな…
真澄に背を向けた英介の顔に、ふっと、笑みが零れた。
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