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濡れた体をシャワーで温め、バスローブに身を包んだマヤだったが、一度冷え切った体はなかなか寒さを忘れてくれない。
ずるずるとベッドの上から羽根布団を引っ張り寄せて一人掛けのソファで体を縮こませるが、震えは止まない。
「っふぇ、くしゅん…!」
「……寒いのか?」
同じくバスローブ姿の真澄が訊ねる。あれからすぐにこちらに向かったのだろう事が分かる、濡れたままの姿で訪れた事も驚きだったが、どんなことよりも真澄が来てくれたという事実が信じがたかった。
真澄がシャワーを使う間、そわそわうろうろと部屋の中を落ち着かずに彷徨いていたので湯冷めをしてしまったのかもしれない。いけないと思いながらも、くしゃみはとめられなかった。
「い、いいえ、すみません、私ったら話の腰を折るようなタイミングの悪いくしゃみしちゃって」
もっさりと布団に埋もれながらマヤが申し訳なさそうに言う。
「いや、そもそも君をそんな目に会わせたのは俺のせいだからな、すまなかった」
苦い顔をして、真澄は歯切れ悪く謝る。
真澄が意を決して告げた「俺が、紫のバラの人だ」という言葉に、マヤの盛大なくしゃみが被ってしまったのだから決まりが悪いことこの上ない。
そんなことには気付かず、マヤは小首を傾げて真澄に聞き返した。
「で、速水さんが、なんですって?」
「ああ、だから……俺は君にずっと紫の」
「ふわは、はっくしょっ」
「……」
「あ……す、すみませ……ふぇっくしゅん!」
ぶるぶるっ、と身を震わせるマヤ。
「大丈夫か?風邪をひいたんじゃないのか?」
「大丈夫です……ただちょっと寒気がしてるだけで」
真澄は布団越しに、椅子の後ろからマヤを抱きしめる。
「少し我慢をして……しっかり聞いて欲しい。君にバラを贈っていたのは俺だ、と言ったんだ」
「なっ…?!ふわっくしょっ、それって…んふっ?」
くしゃみをした直後、羽根布団の柔らかさとは違う柔らかさが唇を塞いだ。
「…!!」
数秒の間しかなかったと思う、不意打ちのキスだった。
「……くしゃみは止まったか?」
口を塞がれれば、くしゃみが止まるのは当然だ。
そんな物理的なことよりも、唇に与えられたその感触と、なぜ、そんな方法で止めたのかが問題で……
今起きたことが信じられず、マヤは、真澄の顔をまじまじと見る。
「な、なんで?は、速水さんは、結婚の相手がいるんでしょう?なのに、こんな……」
「結婚…だ…と?なんだ?それは」
「え?!だって、聖さんが、そう教えてくれたんです。速水さんはお見合いの相手と婚約をしたって」
「見合い?たしかに見合いをしたことはあったが……」
「すごく綺麗な人だって聞いてますけど……」
胸に痛みを感じて、マヤは哀しみに目を細める。
そんなマヤに気付きもせず、真澄はざっくりといとも簡単にそれを否定した。
「だが、タイプじゃなかったから断ったな、それに、もう随分前の話だ」
「タ…タイプじゃ、ない……?!」
愕然としてマヤがつぶやく。
「ああ。それがどうしたっていうんだ?」
「じゃあ、速水さんには、今、お付き合いしている女性はいないんですね?」
「……報われるとは到底思えない相手を思い続けていたからな」
「え……?」
「それを思い切るために、君に紫のバラを忘れさせたかったんだ。だが……」
「……私も、忘れたかったです、速水さんを」
「俺を?何故だ?」
「私、もう随分前から知ってたんです、速水さんがずっと私を支援して下さっていた方だって」
「な……」
「それを知った上で、紫のバラの人に恋い焦がれてきたんです」
「……っ」
「速水さん?」
想いを重ねて言葉にしたが、真澄の耳には届いていないようだ。
相当衝撃を受けたのか、驚いた表情のまま暫し瞬きもしない。
「あの?」
ひらひらと手のひらを目の前で振ってみる。反応はない。
「速水さんっ、しっかり聞いて下さい!」
ぱちんと顔のそばで手を打ってみると、やっと焦点のあった目が戻ってきた。
「そんなに驚きましたか?」
「あ、ああ」
それにしても。マヤは、急く気持ちを押さえて真澄に訊ねた。
「どうして、正体を隠し続けていたんですか?今日みたいに聖さんに引き合わせて頂く機会が今までだって何度もあったのに一度も来てはくれませんでしたね?なんで、今回は来て下さったんです?」
数えられないくらいに何度も。聖さんに紫のバラの人と引き合わせて貰えると聞いて、指定された場所で待っていた事が幾度もあった。けれどもどれだけそういう場を設けてもらっても、彼はそこに姿を現すことはなかったのだ。
速水さんは、私に正体を明かしたくないんだ、バラは贈っても、それ以上はもう関わり合いにもなりたくないんだって、そう思わずにいられなかった。
それで、ムリヤリ自分を納得させて、すべての公演を無事に終えたら身を隠し、のんびりと過ごそうと思っていた。
きっと、忘れられる、もう忘れよう、と思っても、今日だって雨の中の人影に速水さんの姿を追ってしまうくらい、ふとした瞬間に思い出してしまって……あれは結局、本物の速水さんだったわけだけど。
「正体が速水真澄だと知ったら君はショックを受けるだろう。そうやって聖の申し出をつっぱねている間に、君の行方は分からなくなった」
ひとしきりの衝撃を得た後で、真澄が口を開く。
「聖が、君の居所を見つけたと……今度こそ、真実を告げて欲しいと……しつこいくらいに引き合わせようとしてきたが、俺はいまさら君に正体を告げる気はなかった。今日この時間に君を連れてくると言われたときにも、俺は、それを拒んだんだ」
真澄はその先を話すことを少し躊躇うが、マヤの強い眼差しに応えるように言葉を続けた。
「だが……聖から思いがけない話を聞かされて、いてもたってもいられなくなった。どうしても、聖よりも先に君の所へ行かなければと気持ちが急いて、何をするべきか考えもせず君の家を訪ねていた」
「そんな……そこまで速水さんの心を動かした聖さんの話って、一体なんだったんです?」
真澄は、眉を寄せる。
「……聖に、何か言われなかったか?」
「え、何かって?」
「聖は、君に伝える事があると言っていたが」
「だから、何をです?」
「い、いや、何も聞いていないならそれでいいんだが……」
「……速水さん?」
言いたくないのか、口を閉ざしてしまった真澄に、マヤはきりりと眉を上げた。
「いまさら、だんまりはずるいですよ!最後まできちんと話して下さい」
「こればかりは、俺の口から言う事でもないだろうからな」
「もう!」
マヤは、腕を組み合わせて溜息をつく。
「聖さんは、速水さんのかわりにバラを贈って下さっていたこと以外は何も私に話をしていません。速水さんにどんな話をしたかなんて検討もつきません!」
「そ、そうか…」
「何だっていうんです?速水さんらしくない……聖さんも、今日はなんだか感じが違ってたし……」
真澄は、肩をすくめる。
「聖のやつ、ずいぶんと性格が変わったと思わないか?」
「きっと速水さんのせいですよ!いつまでもうじうじぐずぐずしてるから!」
「む?それは君に言われたくはないな」
なんだかおかしくなって、つい、顔をあわせて笑い合う。
こんな風にまた速水さんと話ができるようになるとは思わなかった……
「ああ、そうだ。明日は誕生日だったろう?バラは贈り飽きたからな、それ以外で欲しいものはないか?」
「どうして?」
「え?」
「どうして、私に誕生日プレゼントをくれるんですか?」
消えかけていた期待がマヤの胸に再びふくらんでいく。
「それはつまり……俺が、紫のバラの人だからだろう。それ以外に理由が要るのか?」
「…」
「どうした?やはり、俺が君のあしながおじさんじゃ嫌だったか?」
「あの、さっきも言ったと思うんだけど……私は速水さんが紫のバラの人だったなんてとっくの昔に知ってたんです」
「ああ、さぞ失望しただろう、悪かった、今さら、こんな事を打ち明けるつもりはなかったんだ。だが聖が…」
「…」
あ……なんだろ?なんか、いらいらとしてくる……さっきから何度も、違う言葉で同じことを言われているような気がするんだけれど。
話が、紫のバラの人の正体から進んでいかないのは、もしかしてわざと?それとも、気が付いてない……?
「だから……失望なんてしていないですし、感謝しているって、言ってるじゃないですか。それより、私はずっと速水さん、あなたの事を想っていたんです」
「だが俺が君にしてきた事は簡単に赦される様なものでもないだろう、そうだ、その侘びとして誕生日にはなんでも好きな物を買ってやろう」
また!!スルーされた……!
「ーーーー……速水さん、私…聖さんの気持ちがなんとなく分かる気がしてきました」
「聖の気持ち?!なんだ、それは?」
「人は、変わるんですね、やっぱり」
「どういう意味だ?そうか……紫のバラの人への気持ちも、俺がその人だと知ってがっかりして、君は聖に」「速水さん!」
ぷちん。何かが切れる音がした。
「いい加減にしてください!あなたの正体はもうこの際ナベでもひょっとこでもなんでもいーですっ!だいたい、あれからもう何年経ったと思ってるんですか!正体明かすのも、会いにくるのも遅すぎです!」
「俺は、どうしても、君に伝えたくはなかったんだ。だが、聖が……」
「~~~~~~~~!!」
この期に及んでまだそんな!聖が聖がって、いったい聖さんはあなたの何だっていうんですか?!
あー、ついさっき、黙って抱きしめてくれた速水さんは、何処に?
そ、そうだ!口で言っても伝わらないんなら、行動で……!
「は、速水さん…」
「!?何をしている……やめるんだ、チビちゃん。君は今、自分がどんな格好をしているのか分かっているのか?」
「分かってます!身に着けてるのはこのバスローブ一枚です!だ、だからこうして速水さんに」
「色仕掛けか?バカなことはよせ、そんな幼児体型で通用するとでも思っているのか?」
「むーーーーー!かーーーーーっ!!ひどい……!私だって、一人前の女です!」
「でも、ちびちゃんのままじゃないか。初めて会ったときからたいして変わらない。相も変わらず、ちびちゃんだ」
膨れ面のマヤが可愛く思えて軽い気持ちでからかう真澄に、捨て身で自分の思いを訴えようとしていたマヤは怒りを爆発させる。
「わかりました!えーえ!速水さんは変りましたね、すっっごく年寄り臭くなったっ」
「なん……?!年っ?!あ、おい、ちびちゃん!」
マヤは、勢いよくバスルームに閉じこもったかと思うとすぐに、服を着替えて出てきた。
そうして呆気にとられる真澄から、つーんと顔を背けるとそのまま部屋を飛び出して行ってしまったのだった。
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