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見上げていた窓の外はすでに暮れゆき闇に包まれつつあった。
散り渡った雨雲が紅色の暁に照らされて暗い紫に染まる。
千に散るその乱れた雲間は、二人の行く末を占っているように夕闇に暗く漂う。
これから聞かされる永遠の離別を彩るかのような、暗澹とした嫌な色合い。
マヤは胸の重苦しさを抱えながらそれを見つめていた。
気まずい沈黙の後で、真澄が重い口を開く。
「予定の日取り通り、結婚しようと思っている」
スーツのポケットから取り出した煙草に火を点け、その手元に視線を落とす。
「…紫織さんと…」
「ああ…そうだ…」
分かっていたはずなのに、動揺に心が震える。
「…マヤ?」
おめでとうございますと、すぐに告げれば良かった.
だが何も言う事が出来ずに、不自然な沈黙が再び訪れる。
「…速水さんは……紫織さんを愛してるんですよね?」
凛と声を張ったつもりだったが、マヤの喉から出たのはひどく弱々しい掠れ声だった。
どうしてこの肝心な時に、この声はまともに発せられないのだろう。
きっと、速水さんに変に思われるに違いないのに…
真澄はそれには応えず、灰となってゆく煙草の先を見つめていたが、
やがてその紫煙を口にすることなく灰皿にその火を擦り付けてから、苦く言葉を吐き出す。
「俺には…彼女を幸せにする義務がある」
「義務」という言葉に、マヤは更に心を揺さぶられる。
「彼女だけを愛している」とはっきり告げてくれれば良かったのに。
そうすれば、わずかな期待が芽吹く事も無かったのだ…
「初めから、気がついていれば…良かったんだ」
他の誰も、愛せないという事に、気がついていれば…
「あの人を…それから君を、苦しめる結果になりはしなかった」
「わ、私は…別に…」
胸の奥を覗かれた様な気がして、マヤは口篭る。
苦しむもなにも、真澄との間には何も無いはずだった。
彼はずっと自分に「紫のバラ」を贈り続けてくれたあしながおじさんに過ぎない。
それ以上の感情を、真澄に対してマヤは一ミリすらも出した事など無かった。
「紫織さんは、俺の気持ちにはとうに気がついている。その結果が彼女の自殺未遂に繋がったんだ…俺は、責任を取るべきなんだ」
真澄の痛切な声に反応して、マヤの胸に湧き上がる感情がある。
自分の中の想いを必死で打ち消しながら、マヤは口を開く。
もう幾度、こんなふうに自分に渦巻く負の感情と闘ってきた事だろうか。
「速水さんは…それでいいと思ったんですよね?」
思うように発せられない声を哀れむかのように真澄はマヤを悲しげに見つめた。
「ああ、そうするより無いんだ。マヤ…気づくのが、遅すぎたな…」
真澄の声が、震える。
「紫織さんの退院の日が決まれば、正式に婚約向けて動き出すだろう」
「そう、ですか…」
「そうなれば、君とこうして会うことも出来なくなるだろう。
おそらく紫織さんが命を投げださない様になるまで…俺が彼女を愛せる日が来るまで」
もう会えないという事実が重くのし掛かって再び二人の間に静寂が訪れる。
だが、静まった室内に反して、マヤの心はひどく騒めいていた。
口に出せば容易に崩れてしまいそうな危うい均衡で、心が鬩ぎ合い、暴れだす。
…ああ、どうか、告げないで…
「マヤ…一度だけでいい…」
心臓が、跳ね上がる。
すぐ近くで囁く彼の低い声が、ひどく遠くに聞こえる。
彼への強すぎる想いと未練が、自分の顔に表れているのを自覚しながらも、
マヤは真澄から目を逸らす事ができなかった。
きっと、想いを感じ取られてしまうに違いないのに…
「俺に、思い出をくれないか?」
真澄の手が自分の頬へと近付くのをマヤは目を見開いたまま見つめる。
これまで、幾度も幾度も思い描いていた。彼が、振り向いてくれる事を。
その時が、現実に訪れる事をどこかで望んでいた自分と、
歯止めが利かなくなる事を恐れて実現しない事を祈る、自分の心の均衡。
その均衡が、そっと触れた唇で、すべて崩れ去る。
紫織さん、お願いです…ほんの少しの間だけ…
これで思い切りをつけるから…二人の結婚を心から祝福出来るようにするから…
だからお願い…今だけは、速水さんに触れさせて下さい…
許されない気持ちだと判っているのに、マヤには止めようが無かった。
真澄の胸に怖々と腕を這わせると、触れていただけのキスが深さを増していく。
柔らかな舌が絡み合う。切なくてとても痛い、恐ろしく甘美なキスだった。
口付けながら真澄はマヤをその腕に包み込む。
長いキスを交わして時折見つめあいながら、
二人はすぐに、肌を合せてお互いの温かさを感じる事に夢中になる。
もういっそうのこと、二人で溺れきってしまえばいい。
偽る事の出来ない気持ちに抗うなんて不可能だとお互いに分かっているのだから…
それでもマヤは声が漏れそうになるのを耐えて、息を押し殺す。
思うままに彼を感じるのと同時に、それは紫織への罪悪感をも生み出していく。
溺れ切ることなど到底出来なかったのだ。
渇望しても手に入らないのに…引き返すこともできない。
首筋に肩に指先に…視線を伏せて体中に唇を這わせていく真澄に、
マヤは溢れ出す感情で息が詰まりそうになる。
苦しくて、辛くて、マヤは真澄の髪に触れて胸に抱きしめる。
おそらく、もう二度と触れることはないだろう。
その髪の感触と、唇と、体の熱さを、総て覚えておきたかった。
彼の素肌が自分の肌に馴染んで蕩けていくような感覚に、マヤの胸がきりりと痛む。
真澄の口付けが、狂いそうなほどの切なさを生んでも、
どれだけ彼にしがみ付いても、残る物など何も無いのに。
記憶の中にすら薄れ消え去ってしまうかもしれないのに。
言葉を発したら、きっと紡いでしまう。心の中に犇めく感情を。
声を出してはいけないから、唇を求め合う事しか出来ない。
口付けを交わして抱き合いながら、離れがたく最後のひとときを互いに噛み締める。
苦しいほどの静寂に包まれた部屋で、後悔と、遣り切れない思いに蝕まれながら、
マヤは心の底から思いを告げる。
「幸せに、なって下さいね、速水さん」
マヤの言葉を彼女の腕の中で耳にしながらも、真澄は応える事はできなかった。
「ね?必ずですよ、速水さん…」
か細く囁きながら、マヤは真澄の顔をしっかりと心に焼き付けるように見つめる。
こうして彼の傍にいられるのも、これで、最後なのだ。
もう二度と会えない。二度と、会ってはいけないのだ。
会えば、崩れきった心が抑えられずに、深みに嵌ると分かりきっているから。
「ありがとう、速水さん。私もこれであなたをふっきる事ができます」
そうして、マヤは油断をしたのだ。
もう会うことがないと思うからこそのマヤの発言に、真澄はひどく心を乱される。
求め合い、同じ感情を持ちながらも、なぜ彼女と結ばれてはならないのだろう。
なぜ、彼女と幸福になる道を、自分は選べないのか…
掴み掛けたマヤの想いを逃す事など、自分には出来ないとこんなにも痛烈に感じているのに…
離れかけたマヤの腕を引き寄せて、折れんばかりにその身を抱きしめる。
彼女の全てを逃さないと言うかのように、密かな吐息さえも貪られるほどの激しいキスをする。
吹き荒れる感情の嵐に、マヤは涙で視界が歪んで何も見えなくなる。
自分が、何処へと堕ちて行くのかも見えはしない。
留まろうと手を差し伸ばしても、掴み取ったその手が加速度をつけて深みへと引き込んで行ってしまうのだから。
離れられない
離れなければならないのに。
心を引き千切ってでも、離れるべきなのに。
一度は綺麗にほどいたかに思えた二つの糸先は、複雑に絡み合い修復し難い程に縺れて、
真澄にもマヤにも、解きほぐす事は出来なくなっていたのだった。
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