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テーブルの上の薔薇は、尽きたことがない。
枯れてしまう前に、新たな薔薇が届く。
薔薇を受け取っても、もう、何も心を揺らすことはない。
受け取るたびに馬鹿みたいにときめいていたあの頃とは違って、この薔薇になにか意味があるんじゃないかなんていう幻想は懐かなくなった。
新しい薔薇が届くたびに、まだ美しい形を保っている薔薇を捨てる。
テーブルの薔薇は、いつも色鮮やかで瑞々しい。
それは、毎日、変わりの無い、いつもの景色だった。
その薔薇、捨てるの?まだ元気なのに可哀想じゃないか。
部屋を訪れた友人が、ゴミ箱に投げ捨てられた薔薇を見てひどく悲しそうにする。
枯れていないならもうすこし飾っておやりよ、と、彼女は言うけれど、それは違うと思う。
きっと、薔薇も綺麗なままで捨てられるのを望んでいる。
枯れていくのを見られたくないと願っているのに違いない。
堕落していく私にない潔さを、薔薇は知っているのだ。
五年前のあの夏の日。
彼は私との距離を決定付けた。
きっと、いつかまた会えると、自分に言い聞かせるのにも限度があった。
記憶を繋ぎ止めるかのような薔薇も、今は過ぎ去った思い出の余韻でしかない。
遠く離れた場所で暮らす、会うことのない贈り主。
もう会うことがないなら、私が色鮮やかな感情を忘れていくのは当然だ。
事務的な定期便。
それ以上の彼との接点はないのだと、ちゃんと理解していたはずだった。
噂を耳にすることもあった。
話題に疎いのもあるが、そういった情報をあえて耳に入れようとしなかった。
だから、事業を拡大させた功績を携えて、彼が日本に戻ってきていたなんて、少しも知らなかったのだ。
舞台の後、楽屋の前にその姿を見とめた瞬間、そこに在るはずのないものを見た恐怖に、全身の血が引いていく。
もう何も感じないと思っていたのに。
近づいてくる姿に、うかされたようなあの夏が蘇ってくる。
心臓を押し上げるような息苦しさに気がつくまで、どれくらいたったのだろう。
確実に、あの日から時が経っていることを、彼の容貌から思い知らされる。
変わりの無い端正な容姿に、相変わらず鋭いけれどどこか円熟さを帯びた眼差し。
過ぎた時間を見つめてきたその目が、今、私を見つめている。
きっと、それは私にも。彼も私から、時間の長さを感じているに違いない。
目の前に、見慣れた紫の薔薇が差し出される。
今日は、じかに届けてくださるんですね
黙ったままの相手から顔を背ける。
まだ、前にもらった薔薇が、綺麗なままなんです
俯いてそう言うと、彼はすっと手を伸ばし、私の手首を掴んだ。
…受け取らないでいられるなら、そうすればいい。
手のひらの熱さと、その目に射抜かれ、言葉を失う。
テーブルの上の薔薇を、枯れさせたくないと願っていたのは私だ。
枯れていくのを見たくないと、次々に薔薇を受け取り続けた。
受け取らなければ、彼との繋がりを断ち切れる。判断は、できたはずだった。
枯れてしまうと、どうして思えたのだろう。
薔薇の香りと鮮やかな紫色。
思い出さない訳がない。いつも付きまとって、すぐそばにある。
あの夏の出来事が有ろうが無かろうが、枯れてしまうなんて有り得なかったのだ。
薔薇を贈るのを、止める気は無いと言ったろう?
耳を覆うようなノイズが、ざぁっと一気に去っていく。
耳鳴りが止んだと同時に、周りの音が鮮明になって現実味を感じさせた。
「待ってください…!」
ふわふわと夢に漂っていた意識がはっきりしてくる。
頭の中が冴えわたっていく鮮明さが、今この時にすべてをはっきりさせろと私をせきたてた。
誰が通るとも知らない廊下でこのまま話をするのを憚り、楽屋の扉を開けるとその腕を引いて彼を中に導きいれる。
「分からないんです!どうしてあなたが薔薇を贈り続けたのか」
「薔薇を受け取り続けたのは、承諾の証だと思っていたが…違ったか?」
「そんな…!勝手に送り付けてきただけでしょう?何の意図があるかなんて」
「マヤ…俺に、望みを与え続けておきながら、それを拒むつもりか?」
「…望み?何の望み?!」
「君は薔薇を受け取った。長い間受け取り続けた対価を俺に払ってもらう」
「な…っ」
ひどい。
あんなに遠かったのに。
遠すぎて、手に入らないものだったはずなのに。
それなのに私のことは、こんなにもあっさり奪い取ってしまうなんて、ずるい。
「…私の気持ちを知っていて、待たせていたんですか?」
「待たせたつもりはない。君も本当のところは待ってなどいなかっただろう?」
「もう会えないと知る人を、待ち続けるほど、私は馬鹿な女じゃないつもりです」
恋人を待つのとは違う。手の届かない人を待つなんて言い方は、おかしい。
「分かっていて、受け取ってくれているのだと思っていたが…そう思い込んでいたかっただけだったのかもしれない」
私と何も、係わりを持たなかったのに?
「贈れば、君を繋ぎ止めておけると思っていたから、待たせていたといえば、そうかもしれない。だが…本当のところ、いつまで繋ぎ止められるか、不安でならなかった」
でも、それを速水さんが望んでいたとしたら。
事務的に届いているのだと、気持ちを塞いで受け取ってきた薔薇の花が、実は彼の気持ちの化身だったと告げられている。マヤが、何度も夢に描いていた言葉だった。
「待っていたのは俺のほうだ。いつも、薔薇を贈るときには、君の事を考えていた。同じ事の繰り返しなのに、懲りもせず、それを受け取る君の顔を想いながら、麻薬のように止めることが出来ないまま、何度も、何度も。その常習性の強さは相当なものだったな」
涙が溢れ出す。
「マヤ」
まっすぐに見つめられて、苦しくなる。
「待っていたのは、俺だけだったか?」
耳元に頬をよせて、低く囁く。溜め息のような言葉が、マヤを包む。
「こうして、君に触れる事に、死ぬほど焦がれてきた…」
「っ言ってくれれば、よかったんです…!「待っていてほしい」と、その一言だけ…!」
「…君に想いを寄せていることを父に悟られるわけにはいかなかった。俺は…父親から紅天女を…君を守る力を持たなければならなかった。あの男の足元を浚うために、弱みを見せるわけにはいかなかったんだ」
「速水さんの…弱み…」
その胸に抱きしめられてもまだ、マヤは信じられずにいた。
「君のことに関しては、俺は臆病者なんだ。今も、君に逃げられるんじゃないかと、怯えている…」
「あなたは…本当に、速水さんなんですか?」
いまさら、馬鹿げた質問だったと思う。
だけど、あの速水さんが、こんな事を私に言うはずがない。
「ああ、そうだ。別の誰かに見えるか?」
抱きしめる腕の力が強くなる。
「もう、離さない。君が嫌だといっても、逃がさない…」
あまりにも独り善がりで勝手な人だ。
怒ってもいいはずだ。
「……本当?」
なのに、どうして私は、彼に寄り添っているのだろう。
抱きしめる腕を、この上なく愛おしいと思うんだろう。
「ずっと、速水さんに会いたかった…!こうして抱きしめて欲しかった…」
「マヤ…」
額に、唇が触れる。
真澄は、あの夏の日に口付けたときの、決意を思い返し、叶えられた願いに胸を震わせた。
紫のバラが、届く。
何時かの再会への希望を、確かな想いに変えて。
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