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夏の覚醒



 

夏の匂い

潮の香り

花火の硝煙

夜の湿った空気

今年も、あなたと一緒に――








夜の海は漣がなおのこと騒がしく、どこか魔物を思わせるような怖さを潜めている。

暗く緩やかにうねる海。じっとしているとひきこまれそうな闇の中で、波打ち際をマヤはひたすらに歩く。



真澄の数歩前を、言葉も無く砂浜に足跡をつけて歩き続ける。

時折寄せる波が、マヤのサンダルを濡らしても、気に止める様子も無く黙々と。

別荘のある岬から、どのくらい離れたのか、同じ空と海が水平に黒く続く海岸ではまったく検討もつかない。

灯台の灯りも遠く、月明かりも無い海岸は、星明りだけが頼りの暗く朧な世界だった。



マヤの白い木綿のワンピースが、海風にはためいて揺れながら細い足に絡みついている。

頼りなげな足取り。真澄が後ろを歩いている事を意識しているのだろうか。マヤは振り向くことは無い。

彼女の気の済むまで後を着いて歩くつもりの真澄であったが、見失うはずも無いのに、ふとそのまま闇に溶けてしまいそうな気がして、真澄はとうとう口を開いた。



「どこまで行くつもりだ?ちびちゃん」

立ち止まり、振り返ったマヤの瞳を透明な潤みが覆い、闇の中浮かぶようにゆらりと揺らぐ。

「…会えるまで…」

真澄は震えだした彼女の肩を宥めるように、マヤを抱き寄せる。

「あなたに、会えるまでです…速水さん…」









***********






「今晩、もしよかったら花火をしにいきませんか?」

そう言って誘ったのはマヤの方だった。

「どういう風の吹きまわしだ?君から俺を誘うとはな」

「ええ、いつも速水さんに誘われるばっかりじゃつまんないですから」

「つまらない?心外だな。君は俺と出掛けるのが面白くなかったのか」

「そうじゃありません。ただ…」

どうしてあなたがいつも私を誘うのか、分からないから。

それが何故か聞けない代わりに誘ってみようと思った。言いかけた言葉を止めてマヤは笑みを零す。

「…車出すのは速水さんですからね。海辺まで運転お願いしますね!あ、そうだ、途中で花火買って下さいね」

「おいおい、まだ行くとは言って無いだろ、相変わらずちゃっかりしているな、ちびちゃん」

真澄が断らないと何故だか思い込んでいたマヤは頬を染める。誘い方も、スマートさの欠片もまるで無いではないか。

本当に自分は子供っぽくて、真澄に「ちびちゃん」と言われても反論できない事にマヤは今更ながら気付いたのだった。









真澄の別荘に車を置いて、二人は暮れ切った砂浜で夏の夜を楽しむ。

「きゃああ、速水さん、これ、すごい綺麗ですよ!」

夜の海で暗闇を彩り、刹那に散り消えゆく花火を、消えている間も惜しむように次から次へと瞬かせてマヤははしゃぐ。

激しく燃えては光り輝いては散り、儚く短い瞬きを目まぐるしく繰り返す。

マヤが欲張って買い込んだ花火は、二人では使い切れないかに思えたが、このペースであればじきに無くなることだろう。

「ちびちゃん、情緒ってものは無いのか?そんなに慌ててやらなくても花火は逃げないだろう」

「だって、こんなに思いっきり花火を楽しんだ事ないもの。嬉しくって!」

立ち上る煙に眼を細めて、真澄は白煙の向うのマヤを一片の甘さを滲ませて見つめる。


「最後はやっぱりこれなんでしょうね」

線香花火の束を解れさせ、それぞれに持つ。

蝋燭の灯に、そっとその先端を近づける。

だが、どちらの花火もわずかの間瞬いては、すぐにほろりと落ちてしまう。


「風が強いな。これじゃすぐに消える」

海風に煽られるマヤの手元を、それ以上風が吹き抜けぬよう真澄の体が風上に屈んで遮る。

その肩が微かに触れて、マヤの手元が揺れる。

灯ったばかりの花火は、音をたてる前に光の珠を砂に消失させた。



「あ、もう!次こそは!残るはあと2本!速水さん、勝負しましょう、どっちが長く火がついているか」

マヤは意気込んで火を灯すが、やはり強くなってきた風には勝てず、どちらの花火もすぐに消えてしまった。

「あーー落ちちゃった…もうこれで、終わりかあ…」

花火の終わった後は、何故かいつも切なくなる。

闇に光る鮮やかで美しい炎の残像と、一抹の寂しさだけが残るのだ。


「速水さん…今日は無理に付き合わせてしまってすみませんでした。」

「いや、君が誘わなければ花火なんてする事もないからな、楽しかったよちびちゃん」

「私も、すごく、楽しかった…」



ふいに、視線が、絡み合う。

どうにも気まずくて、花火の後片付けに立ち上がろうとするマヤの手を、真澄がとらえる。

握られている手から伝わる熱が、逃げ出したいほどに、ひどく痛い。



「あ、あの…離して…下さい」

「…離して、いいのか?」



真澄の眼差しを受け止めて、マヤは落ち着き無く瞳を彷徨わせる。

私はどうして欲しいのだろうか?

突き放して欲しいのか、それとも真実を…告げてもらいたいのか…


「気づいているんだろう?マヤ…」

答えを弾きだす前に、真澄に促される。

「…あなたが、私の紫のバラの人だって事をですか?」


「なぜ気がついていながら、だまっていた?」


「速水さんこそ、どうして言ってくれなかったんですか…」


こんなにもあっさりと、お互いに長い間隠していた紫の正体が告げられるとは思いもしなかった。

真実をはっきりさせるのが禁忌のような気さえしていたのに、明日の天気でも語るかのようにこんなにたやすく。

それよりも、マヤの心には、ちくりと抜けない小さな棘のように気にかかる事がずっとあった。



「どうして…」

いつも私を誘ってくれたんですか?



――そうだ…紫のバラも色褪せる程に、心を占めている気がかりがあったのだ。



二人が告げずにいる秘密は、もうすでに紫のバラの正体などでは無い。

先を告げられずに黙り込むマヤを、射貫くような真澄の目が見据え、唐突に核心に触れてくる。


「マヤ…君は、俺を好きだろう?」

その衝撃に、マヤの耳に響いていた煩いほどの潮騒も、風の音も、一瞬で掻き消される。

静寂の中、真澄の真摯に見つめる瞳だけが、その瞬間マヤにとってすべてだった。

マヤは瞠目せずにはいられなかった。彼の唇がひそやかに動くのを、次第に高鳴る胸の鼓動を苦しく感じながら見つめる。


「俺は、君に会いたくて仕方なかった。君も、そうじゃないのか?」


――これは、何?

いつものように私をからかっているのだろうか?

真に受けたとたんに「そんな訳がないだろうちびちゃん、君なんかを俺が相手にすると本気で思うのか?」なんてからかわれるのでは…?

怯えを包み隠して、マヤはゆっくりとと立ち上がり、真澄から離れて砂浜を歩き出す。










かつて恋だと思っていたものが、ほんの一瞬にして覆されたことがショックだった。

私は、こんなに深みに嵌るまで気が付いていなかったのだ。

速水さんに、恋をしていたことに。


…なんて間抜けなんだろう。


自分で気がつかなかった事を、彼には見抜かれていたなんて…

これまでずっと、気付かれていたに違いないのに――




恋しくて触れたくてたまらないのに、振り向いたら彼が消え去っているような気がして、マヤはひたすら歩かずにはいられなかった。

彼から齎された夏の幻惑を、いつまでも引き摺り続けていたかった。

振り向いたらきっと、夏が作り出した幻想が終わってしまう。もう彼には会えない。

それならばもう、この感情ごと、このまま闇に飲み込まれてしまえばいい。


そうすれば、この想いに失望する間もなく、終わりにできるから――



だが、夏の逢瀬が、終わる事は無かった。







「どこまで行くつもりだ?ちびちゃん」

闇に心を溶かそうとするマヤを赦さないかのように、投げかけられた声。

臆病な心を打ち砕くように、突然、狂おしい程の感情がマヤの胸に一気に溢れ出す。


「会えるまで…」


振り向くと、彼は自分のすぐ近くに佇んでいた。海風に煽られて湿り気を帯びた黒髪に大きな手が触れる。

引き寄せる胸が熱くて、マヤは一気に涙を溢れさせた。



「…あなたに、会えるまでです…速水さん」



分かっている。

永遠に続いて欲しいとどれだけ願っても、

海砂のようにさらりとすり抜けていってしまう現実を捉えておく事なんて出来ないと。



自分の感情に戸惑い、途方に暮れているらしいマヤを、真澄は風に乱れる髪を撫でては宥め、憑かれたように真澄を見上げて涙を零し続けるマヤを覗きこむ。


「なぜ、泣く?」

真澄は、蕩けるような低い声でマヤに言葉を注ぐ。

「泣くのは俺のほうだろう?君がいままで俺にどれだけ酷な事をしてきたか、判っているか?ちびちゃん」

「…私が…速水さんに?」

「ああ」

「何を?」

「分からないなら、尚更だ」

「分かりません…速水さんが私にした酷い事なら分かりますけど」

「俺が君にか?俺はかなり君に尽くしているつもりだが?」

顔を見合わせてくすりと笑う。腕を引き、戻るように促しながら、真澄が囁く。

「俺が君にしたことを、教えてくれないか?」

「速水さんが、先に言って下さい。私が何をしたって言うんですか?」

「それは――」





潮騒に声が掻き消されないよう身を寄せ、真澄から告げられた言葉にマヤはくすぐったさを感じる。

一瞬、意味が分からずに首を傾げたマヤであったが、自分を見つめる真澄の表情にその意味を悟る。

ゆっくりとしみこんでいく言葉を噛み締めながら、マヤは自分の周りだけが闇の中で発光しているような気がした。


――まるで、恋人同士の会話みたい…

深々とした夜の空気に呑み込まれ、波をよけつつ海岸沿いを歩いて元の場所に辿り着くまでには、きっと自分の心は彼に捕獲され切っている事だろう。

マヤは先程まで、胸に抱えていた不安が綺麗に溶け去ってゆくのを感じていた。




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