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朝靄の夢


長い長い片思い。

悩んで悩んで悩みすぎると、

もうすべてがどうでもいいような

全部投げてしまいたくなるような

気持ちになるときがありませんか?




 朝靄がたちこめる中、土手に腰掛けて、マヤは手の中の携帯電話をぼんやりと見つめる。

 どんよりと曇った空も見えないくらいに濃い霧は、今のマヤの心にぴたりと張り付く。

 体に纏わり付く湿気が、ひどく鬱陶しい。鬱々とした気分を振り払いたくて、

 マヤは一晩中眠らずにアパート近くの川沿いをふらふらと彷徨ったあげく、

 まだ夜も開けきらないこんな早朝に、彼を呼び出してみたのだった。



 こんな朝早くの電話になんてきっと出ないだろうと思っていたのに、2コール目で彼と通話が繋がったし、

 誘っても来ないだろうと思っていたのに、ものの数十分待っただけで、彼は私の前に姿を見せた。

 勢いに任せた待ち合わせの約束は、あまりにあっさりと話が進んで、なんだか他人事のように思えてくる。



「チビちゃん、こんなところへ呼び出すなんてどういうつもりだ?」

「……速水さん、本当に来たんですか…」



 幻かと思いつつ、呆けたまま彼を見る。

 不可解なものを見るような彼の顔が、なんだか可笑しい。

 

 ああ、私、眠らないでいたものだから、ちょっとハイになってるみたいだ…

 自分の行動も、彼の行動も何もかもが、妙にコミカルに感じてくる。

 だいたい、ここの土手の場所だって、細かく伝えたわけじゃないのに、

 どうして私の居場所がこんなに早く分かったんだろう。

 そんなに息を切らせて、私のところにくるなんて、なんだか速水さんじゃないみたい。



 マヤは籔から棒に自分の襟元から銀色に光るネックレスをたぐり出すと、そのペンダントトップを真澄に見せた。

「このネックレス、桜小路君がくれたんです。私、これをいつも肌身離さず、大切に付けているんです。

 ネックレスをつけて、桜小路くんの事で頭の中をいっぱいにして、彼とのデートに心を騒がせて、毎日

 とても幸せに過ごしているんです」

 突拍子なく話し出しながら、マヤは真澄の顔を面白そうにじっと見つめた。

 彼はどんな反応を見せるんだろうか。気がおかしい女だと軽蔑視して去っていくだろうか。

「私の頭の中から、あなたを消して、桜小路くんの事だけを想えるように、私、努力してるんです。

 桜小路君もきっとそれを分かってくれているんだと思います」

「…そんなのろけ話を聞かせる為にこんな時間に呼び出したのか?君が俺や桜小路をどう想おうが、俺には興味はない」

「そうでしょうか?私はのろけを言ったつもりはないんですけど」

「ちびちゃん、いったい君は何が言いたいんだ?」

「速水さんは…私と桜小路くんのことを聞いても何とも思わないんですか?

 じゃあ、あなたは、どうして、私にバラを贈って下さったんですか?」

「……なんだと?何を…」

「私、知ってます。あなたがずっと私にバラを贈っていたことを」

「ふ、俺が紫のバラの人だと言うのか…?贈り主に俺を仕立て上げて何になるんだ?」

「速水さん。私には、今、なんにも怖いものなんかありません。だから、なんでもあなたに言える…

 あなたが迷惑だと思っても、私は言わせてもらいますから」

 もう躊躇するのは嫌だ。

 それがもう二度と彼との繋がりを絶つことになろうとも。



「速水さん、私はあなたをもうずっと長い間、慕っていました」


「チビちゃん……」

 真澄は夢を見ているのではないかと思い始める。

 深まる霧に紛れてしまいそうなマヤの姿は、本当に現実のものなのか。



 浅い眠りを破った彼女からの電話。

 今から会いたいと告げられて、心が騒がずにはいられなかった。

 その上、思いがけない、彼女の告白。

 たとえこれがれが夢であろうと、胸が高鳴らないはずがない。


「俺を、君は本当に…?」

「はい…」

 恥ずかしそうに俯いた彼女を引き寄せる。霧の中の幻ではない。

 実体のある、温かなマヤの体が、胸の中におさまった。

 マヤ……!

「……ずっと、あなたを父親として慕っていました」

 わずかな沈黙の後、頬を叩かれたような衝撃に真澄は声をあげずにはいられなかった。

「…ち…父親っ?!」

 思わず抱き寄せた肩を引き離した真澄に、マヤはにっこりと笑いかける。

「父親がいたらこんな感じかなってずっとお慕いしていたんです。どうか…『お父さん』って、呼ばせてください、速水さん」

 真澄は目をむいてマヤを見つめた。

 父親?!男としてではなく?!

 いや、確かにそれは…彼女にとっては当然かもしれないが…

「……ふふっ、は、速水さんの顔っ…あ、あははははははっ!」

「な……っ」

 真澄は絶句したまま、暫くの間笑い転げるマヤを見つめていた。

 だが、我に返ったとたんにカッと頭に血がのぼる。

 本当の気持ち知らぬとはいえ、想いを踏み躙っておいて、なにが可笑しいというのか。

「君は!俺を馬鹿にするためにこんなところへわざわざ呼んだのか?!」

「馬鹿になんてしていません。あなたの本心が聞きたかったんです」

「本心?!ああ、そうだ!俺は君に紫のバラを贈り続けてきた。娘を想うような気持ちでだ!それで、いいな?そう言えば、君は満足なんだろう?!」

 彼女らしからぬふるまいに、違和感を感じながらも、怒りを隠すことができない。

 苛立ちのまま去っていく真澄に、マヤは呟く。



「……ありがとう、速水さん。ありがとうございました、紫のバラの人…」







 深かった霧は、いつの間にか消え去り、明るさを増した曇天が見えていた。

 マヤは草の上に、服が濡れるのも構わずに寝転がる。

 葉先に付いた露が背中に滲みていくのを感じながら、マヤはうっとりと目を閉じた。


 心の中が真っ白で気持ちがいい…


 夏草の香りを胸いっぱいに吸い込むと、その爽やかさが体のすみずみまで行き渡るような気がした。

 あれからもう何度反芻したことだろう。

 速水さんが、紫のバラの人だと認めてくれた事が嬉しかった。

 自分の想いを一方的にでも伝えられたのが、とても嬉しい。

 それから、鳩が豆鉄砲を食らったようなあの人の顔。

 爽快だった。彼にあんな表情をさせることができて。

 ずっと片思いさせられて、もやもやとしていた気持ちが晴れていった瞬間だった。


 なんだかほっとしたせいか、急激に睡魔が襲ってきた。

 このままここで眠ってしまおうかな…起きた時にはもっと気持ちが軽くなっているはず……


「……これで気持ちをリセットできるんだよね、私」

「それは困るな。俺はまだ君に言いたい事がある」


「えっ…」

 途端に眠気がすっ飛んで、マヤは弾かれた様に起き上がった。
 視線をあげ、そこに佇む人を確認して呆然とする。

「速水さん……どうしたんですか?帰ったんじゃなかったんですか」

「……やはり、はっきりさせないままでは帰れない」

 ぶっきらぼうにそう言って隣に腰掛けた男に動揺し、マヤは息をのむ。

「…な…何を、ですか?」

 髪に草の葉が付いているのを掃ってやりながら、真澄は憤慨やるかたないというようにマヤを見た。

「まったく、よりにもよって、父親だと?!俺は君を娘だなんて思って贈ったことは一度もないんだ!」

 真澄の手を避けて、自分で頭をわたわたと掃いながら、マヤは戸惑いのあまり早口になる。

「い、いいんですよ、私は速水さんの娘で!気にせず早く新しいお母さんと幸せになって下さい!」

「マヤ!俺は、ふざけて言っているんじゃない。君にそんな事を言われると不愉快だ」

「そうですよね、速水さんはお父さんって呼ばれるほど、そんなにおじさんじゃないですよね。ごめんなさい、失礼な事言って」

 あくまでも父と娘を強調したがるマヤに真澄は苛立つ。

「そうか、分かった。では君の父親として言わせてもらおうじゃないか」

「な、何…?」

 鼻先に指を突き付けられて、マヤは明らかに怯んだ。
 真澄は相変わらずふてくされたような顔をして、マヤにきっぱりと言い放つ。

「今後、桜小路とは付き合うな。親として、ボーイフレンドは認めん!」

「へっ…何でですか…」

「そのペンダントも、今すぐに外して捨てるんだ」

「え…捨てるんですか…?」

「そうだ。それを外せ、マヤ!」

「あ、いたたたた、痛い!そんなに引っ張んないで下さいよ!今外しますから!」

「それから、俺以外の男と出かけるのは認めん。遊園地などもってのほかだ」

「ええっそんな!わ、私だってたまには遊園地くらい行きたいのに!」

「駄目だ。行くなら保護者同伴だ」

「保護者って…」

「無論、俺だ」

「な……っ」

「俺は君をずっと見護り、援助もしてきた。だから俺のいう事は絶対だ。従ってもらおう」

「ず、随分と、横暴ですね」

「当然の要求だ。まだ何か文句があるか?」


 この人…本当に速水さん?いったい、どうしちゃったの?
 それとも私の頭がおかしくなっちゃったのかしら。
 徹夜明けって、変なものをみるって言うし…

 だけど可笑しいな…こんな可笑しなことってないんじゃないかしら…

 胸の鼓動が早くなるのと同時に、笑いがこみ上げてくる。

 弛む口元をこらえながら、マヤは拗ねた素振りを作った。

「私の『パパ』は、娘に過保護すぎます」

「パ…その呼び方はよさないか、チビちゃん…」

「そうだ!紫織さんに私の事、『娘です』って紹介してもいいですよ。ご遠慮なく」

「君は、まだそんな事を!俺は…!」

 言いかけて、真澄はぐっと声を飲み込んだ。素に戻ったほうが負けだ。
 何の勝負なのか分からないが、そんな気がする……

「し、紫織さんは、君の母親にはならん!」

「どうしてですか?」

「どうしてって…それは、勿論、君という娘がいるからだ」

「だから、私は新しいお母さんがいても平気って言ってるじゃないですか」

「本当にそう思うのか?」

「う…いえ、ちょっと…いや本当は、かなり嫌かも…やっぱり、お父さんは独り占めしておきたい、かな…」

「ふ、素直でよろしい」

 真澄の偉ぶった口調に、マヤはこらえきれず笑い出した。



「もう…馬鹿みたい!!おかしいですよ……私も速水さんも、どうかしてます…あははははは!!」

「俺は正常だ。君はどうか知らんが。さて、俺は仕事があるから帰るが…娘である君ももちろん、家に戻るんだろうな」

 そう言って立ち上がった真澄を、マヤは眩しげに目を細めて見上げる。



「もういいです。私、速水さんのこと、お父さんだなんて思ってないです…」

訳のわからない勝負の末に白旗を掲げてきたマヤに、真澄は笑みを含んだ眼差しを向けた。

「……俺も君を娘だとは思ってはいない…マヤ…」

 再び隣に膝をつき、そっとその頬に触れる。

 マヤは涙のにじんだ瞳で真澄を見つめた。

「本当は私…速水さんのことは…お父さんって言うより…頼りになるお兄さんみたいだって思ってます…」

「!マ、マヤ……?!」

「っあははははは!速水さん、おかしい…!そんなにうろたえちゃって…!」

「………!!」

 真澄は顔を赤くして、触れていたマヤの両ほっぺをはさみこむようにしてむぎゅうとおさえた。

「いい加減にしろ!俺は、君が本気で好きなんだ!家族愛にして茶化すんじゃない!」

「あはははははは!!」

「笑い事じゃないだろう!」

「あははは…ごめんなさい、速水さ…なんだか笑いが止まらなくって…くっくく…」

 涙をぼろぼろこぼしながら、マヤは真澄が呆れるほど長い間笑い続けた。

 髪に優しく触れる手を感じながら、笑顔のまま眠りにつくまで。




長い長い片思い。

悩み疲れて放り投げてみたら、

案外うまくいくこともあるみたい?



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