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眩い泡沫




深い濃い霧のように私を包み込んでいた膨大な暗い水。
遠くなる水面が、ゆらゆらと揺れて、まるで光の粒のように綺麗に輝く。






唇がやけに熱い。

ああ、なんて、心地がいいんだろう…
あんなに苦しかったのが嘘みたいだ。
まるで、生命を吹き込まれるように私の中に送り込まれてくるのは、
いったい、なんなのだろう?

「しっかりするんだ、ちびちゃん!」

唇が離されると同時に、突き上げるような胸の苦しさに噎せ返る。
途端にマヤは激しく咳き込んで身を折り曲げる。
「は…」
心臓が止まってしまいそうな程に一頻り咳き込んで、胸に手を当てマヤはひどく乱れる吐息で小さく呟く。
「速水さん……」
見上げた彼の瞳が、拭いきれない程の不安と怯えに満ちていた。
「マヤ…!」
髪に顔を埋めその胸に強く抱きしめられて、力強い鼓動が驚くほどの近さで耳に響く。

速水さんの心臓…どうしてこんなに早く打っているの?

ああ、私…ずぶ濡れだ。速水さんの体も濡れてる。
それなのに、なんでこんなにあったかいんだろう……

「マヤちゃん!大丈夫かい!?」
桜小路が人だかりの中からマヤの前に姿を現した途端、すべてが思い出されてかあっと顔が熱くなる。

――私は…桜小路君と食事に出掛け、そこで思いがけなく「紫のバラ」を受け取って…
その紫のバラの贈り主を夢中で探して…そうして…求めていたその人が、今、自分を抱きしめている……

「あ、あたし…海に落ちて…速水さんが、助けて下さったんですね…」
そうだ、薔薇……速水さんにもらった、薔薇は…どこ?

視線を巡らすが見当たらない。

身体が、重い。衣服が海水で濡れているせいもあるのだろうが、
何より溺れた時に激しく体力を消耗していた。体が鉛のようで動く事もままならない。

ぐったりと重い体を感じていたのはマヤだけではない。
真澄は海から彼女を救い出した時の、腕に力なく凭れる彼女の体の重さに、正気を保つのが困難なほどだった。
助け出し横たえた時のマヤの顔色はひどく青白く、意識を取り戻した今も未だにその肌に血の気は戻ってはいない。
それがマヤの身に隣り合わせていた死を思わせて、真澄の胸の震えは止まらなかった。
そこにいるのを確かめるように、真澄は幾度も力をこめなおしてマヤを抱きしめる。

「君が、無事で良かった…!」

「…うん……」
うん…良かった…私、生きていられて本当に良かった…
こんな風に速水さんに抱きしめてもらえるなら、深い海の底からだって幾度でも蘇って来れる気がする……

「救急車、呼びますか?」
冷静を装って桜小路が真澄に尋ねると、マヤが僅かにゆっくりとかぶりを振って応えた。
「いいえ、大丈夫…もう、なんともないから…」
「ちびちゃん、一度病院で検査をしてもらった方がいい。しばらく意識を失っていたんだからな。後になって何かあっては困る」
身を起こして真澄が体を離すと、急激に冷気がマヤを襲う。がたがたと震えだしながら、マヤは彼を真摯に見つめる。
「それなら…速水さん…」
近くに無い熱に不安になって、マヤは真澄の濡れて肌に張り付く白いシャツに力をこめて指をはわせる。
ひやりと冷えた繊維の奥に、暖かな彼の体を感じる。この熱が、私はとても欲しい……
「私に付き添ってくれますか?こうして、このまま体を温めていて欲しいんです…」
あなたに、ずっとこうして傍にいてもらいたいんです…速水さん……
「ああ…勿論だ、ちびちゃん…ずっと付いていてやるから…」
頭から大きな上着をかけられて彼の胸にすっぽりと包まれると、
ほうっと大きく息をついてマヤは真澄に体を委ねた。

「マヤちゃん…」
桜小路は真澄に縋るように抱きかかえられた彼女を見送る。
夜の海に投げ出され、彼女はどれだけ怖い思いをしたことだろう。
助け出されたとはいえ、いまもひどく心細いに違いない。
だけど…彼のような大人の男性についていてもらえば安心だろう……
速水さんなら、彼女の父親のような存在として、自分が傍にいるよりも、きっとずっと……

だが、何かが、心の琴線に触れている。
なんなんだろうか…?この言い知れない不穏な気持ちは……

「着替え…彼女の着替えを持っていってあげないと…」
些細な事に心を割いている場合ではない。
自分が彼女に出来る事をすることが先決だろう……
そう考えた桜小路はタクシーを拾おうと大通りへと駆け出す。
そこに意外な人物が立ち尽くしているのを見つけて、桜小路もまたその場に足を留める。

「あなたは…速水さんの…」
紫織の姿に桜小路ははっとする。
感情を抑える事もなくはらはらと涙を流しながら、切なげに瞳を揺らすのは、
美しい淡い紫のドレスで着飾った真澄の婚約者に他ならなかった。
その艶やかな緋のルージュが、わななきながら言を紡ぐ。
「…真澄様…やはりあなたは……」
気を失いかけて崩れるように倒れたその背を、桜小路は硬いアスファルトから庇う様に支えた。
「大丈夫ですか!」
ショールが紫織の肩から流れ落ちる。哀しむ彼女の想いに殉じるかのように、緩やかに……
「……あの子のことを……」
あの子?
マヤちゃんのことだろうか?
速水さんが、マヤちゃんのことをどう考えているって…

先刻の予感が、桜小路の体に電流が奔るかのような思いがけなさで、ひとつの結論を突きつける。
二人の視線に割って入れない何かを感じていたのに、そんな筈がないとはなから考えもしなかった。
紫織の漏らした嘆きに、桜小路は自分は何か恐ろしく愚鈍な男を演じていたのではないかと、居ても立ってもいられない心地になる。
彼女が、自分の手の届かない所へ彷徨い迷い込んでしまう……
桜小路は今すぐに、二人を追って病院へ行かなければ、取り返しの付かない事が起きそうな気がしていた。







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